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元気なウヨにつける薬。

昔パソ通Niftyに書いたヤツ。森首相の「神の国発言」があってウヨの擁護派が元気だったときに「いやいや、神の国ってのはカソケキものだぞ」って。まだ有効なんじゃないだろうか

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08990/08990 HGG02060 疾風怒涛体操 RE^4:「神の国」発言の要旨
( 2) 00/06/22 01:37 08703へのコメント

》「神道」が「牧歌的な精霊崇拝」だというならば、まだ共存する余地があるん

つーか。アレ的なものを受信するアンテナは私の血の中にある。

本来、牧歌的な精霊崇拝の象徴である天皇は、森羅万象に憑いているんじゃないだろうか?空っぽの引き出しを開けるとその向こう角の綿ボコリが揺れて、フと或る者の存在や不在を感じる。この存在が怖くて、その不在がなにがしかで埋められる、そのあたりの強弱はあるが電波が来てる感じ。

あと。遷都の事も考えたんだが。あれって、今までの所の中心性が強くなりすぎたので、かそけき辺りに移動する(よける)んじゃないだろうか?

声はささやかに。

「かそけし」は電子版大辞林には「幽し」と表記されてるな。
「ささやか」は「細やか」。「囁く」は別に「私語く」。「こまやか」は「細やか」と「濃やか」が出てる。細(こま)やかで濃やかなんだな。

「濃やかほど細部に幽し」か。

                     □ しっぷ □
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は虫類の思考は肉体的に停止しているのか?

脳細胞に何事か起こった場合、脳は変容するわけで、その部位によって人体の各種がオカクシュなるわけだ。で脳内快楽物質が素早く分泌された場合思考が停止して、脳内快楽に酔う事になる。というのは例の2チャンの「うよ」や「嫌韓」を見ながら思っていたんだが、言葉がキーとなって脳内快楽物質の大量分泌が起こっているようなのだ。

で。人間ってのは基本的に、いくつかのキーワードしか理解できないらしいんだが、人によっては、そのキーワードの語彙に注目すべき偏りが見られる例があるんだ。(その例のひとつが「うよ」だったり「嫌韓」だったりするんだと思う。)

また、固有に偏っているので「うよ」や「嫌韓」を論理的にほどこうとしても、その論理の使う語彙が彼らの持っているキーワードに含まれていないので。彼らは「解放」に至る事がないのだ。通じる語彙を探し回って、結局、通じる語彙が構成する論理こそが彼らを構成しているんだと気づくに至るのだ。つまり彼らのすべては彼らに通ず、なのだ。また同じく私のすべてが私の構成要素なので、私もついに「解放」される事はないのだろう。

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ずぅーと前から私にとりついているイメージに「人間は時間と傾向性の織りなすグラフである」というのがあって、この2次元グラフに分散する点の分布傾向性が「個性」なんだろうが、点の分布の偏りが、他者から見て不快になっている例があるんじゃないか?傾向性間の親和性が無いって、脳の肉体的な問題なんじゃないか?と。

とか。ここはワケワカラン独り言を書くんです。

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★ 「守るべき自己の領域に関して」(1999/06/03)

これ↓で切っていこうという趣向です。

》清潔志向って何なんでしょう。あるいは自愛の形なんでしょうか。

いわゆる盗聴法案に関してなんだが、米国で盗聴されてて、それで具体的に プライバシーが侵害された実例がどれほどあるのか? 抽象的なプライバシーは侵害されて当たり前で、 それが気になって仕方がない心身耗弱を社会的に容認するのか?

異物を盗聴発見して排除しようとする社会秩序健全維持意識とプライバシーを守れと言う自己の領域に対する固執とは同一ではないのか?

問題の本質は、頭いい人たちを盗聴することが出来ない状態で盗聴する実効性が果たしてあるのかと言うことで、自分が頭悪い事を棚に上げて、相手を指弾する者は、弱者や敗者に社会構造をあわせろと主張する縮小再生産である。それらを包含しながら発展していこうという姿勢はとれないのだろうか。

日本民族は基本的に草食動物であって、その中に肉食動物が混ざることをおそれているわけだが。 現実にはマスミ目やサッチー目と言った、げっ歯類麻原目より更に優れた異生物が混在しているわけで、それらを異物であるとして排除したい願望は、それらを同じ平面に共存する存在として認識するまでの経過なのではないのか。

現実が変えられない以上、共存せざるを得ないのだ。毒も清濁も現実には存在するわけで、それを飲まないことは、果たして飲まない者の清潔を意味しているのか? ただただ異常潔癖を現しているだけではないのか。

では、それらを包含して発展するグランドデザインとは、

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★ 「私は点らしい」 (1999/01/17)

ここにひとつの特異点が有り、その特異点を得意にさせているのがその特異性である場合、差異が優越的に意識されているわけで、しかし元々同じヒト族の中の差異など差異と呼べるほど大きなものがあるわけもなく、「私」が「他者」から異なっていると言うことは「他者」が「私」から異なっているのだし、「私」は「他者」からの差異によってしか「私」として確認できないなら、また、「私」がそうであるように「他者」もそれ以外の「他者」からの差異によってしか自己確認できないものだとすれば、「私」は本当に「私」なのか疑問を持たねばならない事態が発生するのだが、それは「私」が宇宙より飛来した希鉱石でなく、類や族の一部にすぎず、その全体的特性を表す傾向中心線の周辺に分散するあの点のひとつにすぎないというか、幸せにもその点であるという。

しかし、私が差異によらず私の存在自体によって私であるならば、これこそ私が奇跡の点であるわけで、点在する「点」は孤独だったのかという感慨が、散在する粒子は孤独だったのか、遍在すると見せながら偏在した「淀み」は実は偶然であったのか、点は滲みの見え方ではなかったのだ、点が存在したのだ。

いや、「私は滲みの中点にすぎない」という確信。その日まで、私たちはナニして行かねばならないと言う現実を見据えながら価値あるナニをソノ、何つーかエト、して行かねばならないと言う感を深くしたのであった。

かしこ(^^;)/

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